ナパの午後について、私は長いあいだ誤解していた。ワインカントリーなのだから、上品で、静かで、少し気取っていて、テラスの白いクロスの上にきちんと脚を揃えたグラスが置かれている、そういう午後ばかりを想像していたのだ。もちろん、それもある。実際、ナパには美しいテラスがあり、長いランチがあり、風景に似合う速度というものがちゃんと存在している。けれど本当にナパらしい午後は、もう少し人間臭く、もう少し可笑しく、そして最後には思いがけず静かだ。洗練と脱線、その両方を同じ一日のなかに抱え込んでいる。だからこそ記憶に残る。

その日、私は朝から少し機嫌がよかった。理由は単純で、空がきれいだったからだ。ワインカントリーでは、空がきれいだというだけで人は一日の半分くらいに成功した気になる。山並みは遠くでやわらかく重なり、葡萄畑の列は光の角度によって緑にも金にも見え、朝の空気にはまだ過剰な期待が混じっていない。都会にいると、一日は予定によって始まる。だがナパでは、一日は光によって始まる。今日はうまくいきそうだという予感は、たいてい空の高さから先にやってくる。

ホテルのロビーでワインバスを待っているあいだ、私はまだ自分がその日どこへ連れていかれるのか、半分もわかっていなかった。地図の上ではいくつかのワイナリーを巡るらしい。昼食も含まれている。帰りは夕方。そういう程度の理解で十分だと思っていたし、実際そのくらいの曖昧さがちょうどよかった。ナパでは詳細を詰めすぎると、一日の品が少し落ちる。何軒回るか、何杯飲むか、どこで何を買うか、その全部を事前に管理しようとすると、風景の側が持っている余白とうまく噛み合わなくなる。だから私はその日、珍しく素直に「連れていかれる」ことにしていた。

ワインバスには、すでに昼の気配があった

バスは、想像していたより少しだけ古く、想像していたより少しだけ愛嬌があった。磨き込まれた高級感より、長く使われてきた観光の親しみのほうが先に立つ。その加減がよかった。ナパのワインバスがもし、あまりにも完璧なラグジュアリーでできていたら、たぶん一日はもう少し退屈だったと思う。多少のユーモアや人の匂いが混ざっていたほうが、葡萄畑の風景はきれいに映える。

そしてそこに、彼女たちはいた。

バスの後方、窓際に並んで座っていた三人の老婦人たちである。老婦人と呼ぶべきか、少女の延長線上にある年長者と呼ぶべきか、一瞬迷うような人たちだった。髪はそれぞれにきちんと整えられているのに、笑い方は驚くほど自由で、身につけているものもどこか華やかだった。淡いピンクのジャケット、白い帽子、ターコイズの大ぶりなイヤリング。三人とも年齢を恐れていない服の着方をしていた。むしろ年齢を、上手な冗談のように身につけている感じだった。

私が席につくと、彼女たちの一人がこちらを見て、「あなた、まだ素面ね」と言った。私は少し驚いて笑った。もちろん素面です、と答えると、「それは午前中だけよ」と彼女は当然のように言った。残りの二人が声を揃えて笑った。その笑い方に悪意はなく、むしろ歓迎に近かった。私は早い段階で悟った。この一日は、静かなテイスティングノートより、もう少し賑やかな何かになる。

夕方のナパの葡萄畑
ワインカントリーの一日は、葡萄畑の静けさだけでなく、人間の陽気さまで含んではじめて完成する。

彼女たちはサンフランシスコから来ているらしかった。大学時代からの友人で、毎年一度、誰かの誕生日でもないのに誕生日のように飲む日を作るのだという。「だって、生きてるだけで毎年めでたいじゃない」と、帽子の老婦人が言った。まったく正しいと思った。ナパという場所は、そういう考え方の人によく似合う。努力や成果のご褒美として飲むより、生きてきた時間そのものを祝うために飲むほうが、この景色にはふさわしい。

バスが走り出すと、彼女たちは早くも小さなスナックを開き、紙ナプキンを広げ、まだ午前だというのに「これからが長いんだから、水もちゃんと飲みなさい」と互いに忠告し合っていた。忠告し合っているのに、その声の調子にはぜんぜん自制の匂いがない。むしろ、この先の乱調を見越しているからこそ出る、熟練の陽気さだった。彼女たちはきっと何度も失敗してきて、そのたびに上手に笑ってきたのだろうと思った。

老婦人たちの狂騒には、奇妙な気品があった

最初のワイナリーで出された白ワインは、とてもきれいだった。冷え方もちょうどよく、香りもやわらかく、テラスの風景にもよく似合っていた。私は最初の一口を慎重に味わった。ナパでは最初の一杯が、今日一日の姿勢を決めるような気がするからだ。丁寧に飲めば、そのあとも一日を丁寧に過ごせる気がする。ところがその静かな決意は、老婦人たちによって数分で破られた。

「こんなにおとなしく飲んでちゃ、葡萄に失礼よ」と、ピンクのジャケットが言ったのである。

その論理はわからないようで、わからなくもなかった。葡萄は太陽を浴び、風を受け、長い時間をかけてここまで来た。その労力に報いるには、真面目すぎる顔でスワリングしていてはいけない、ということらしい。彼女たちはワインの知識がないわけではなかった。むしろ十分にあった。香りの話も、ヴィンテージの違いも、土壌のこともわかっている。そのうえで、わかっていることをいちいち全部重くしない。そこに奇妙な品があった。ふざけているように見えて、ワインを粗末にはしていないのだ。

彼女たちは二杯目に入る頃には、すでに少し声が大きくなっていた。だが不思議と下品には見えない。年齢を重ねた人にしか出せない、重力を少し裏切るような陽気さがある。若い人が同じように騒げばただの酔客に見えるかもしれない。けれど彼女たちの場合、その騒ぎ方には人生の後ろ盾があった。恋も仕事も病気も離婚も家族の面倒も、たぶんそれぞれにいろいろあったのだろう。その全部をなんとかくぐり抜けてきた人だけが持つ、雑ではない騒がしさだった。

「あなた、日本から?」と白い帽子が聞いた。

ええ、と答えると、「それなら今日はちゃんとアメリカの老後を勉強して帰って」と言った。

「こんなふうに?」

「そう、こんなふうに。恥をかきながら、でもワインはこぼさない」

残りの二人がまた笑った。私はその標語を、ずいぶん気に入ってしまった。恥をかきながら、でもワインはこぼさない。大人の上品さとは、もしかするとその程度のことなのかもしれない。

若さは勢いで騒げる。
だが年齢を重ねた人の陽気さには、
失敗をくぐり抜けてきた分だけの品がある。

午後は、予定より先に酔いが完成してしまう

二軒目のワイナリーへ移動する頃には、バスのなかの空気ははっきり昼のものになっていた。最初は朝の延長だった車内が、いつのまにか、どこか親密な宴の途中みたいになっている。人は一緒にワインを飲むと、驚くほど早く「今日だけの共同体」になる。名前を覚えなくても、詳しい仕事を知らなくても、同じ景色のなかで同じグラスを傾けているだけで、一時的な連帯が生まれる。ナパのワインバスは、その連帯ができるのを待っているかのように、ちょうどいい速度で走っていた。

二軒目ではロゼが出た。老婦人たちは歓声に近い声を上げた。ロゼというのは不思議な酒で、どこか人を軽率にさせる。赤ほど重くなく、白ほど無垢でもない。その中間の色が、人の心に「今日は少しくらい予定を崩してもよい」と言ってくる。私はここで少し油断した。ロゼは危険なのだ。飲み口がやわらかいぶん、自分の機嫌のよさとアルコールの進行を見誤る。

テラスの向こうには、葡萄畑が午後の光のなかで静かに広がっていた。風はまだあり、遠くの斜面は少し霞んで見える。絵に描いたような午後だ。にもかかわらず、私の耳にもっと鮮明に残っているのは、隣のテーブルから聞こえた老婦人たちの会話である。

「あなた、去年のこと覚えてる?」

「都合よく忘れたわ」

「それが正しいのよ。ナパでは、翌年まで残る恥は少し減らしておくべき」

こういう会話を聞いていると、ワインカントリーの本当の贅沢は、液体そのものより「少しばかり馬鹿になれる余裕」のほうにあるのではないかと思えてくる。上質さとは、いつも完璧でいることではない。きちんと崩れられることでもある。しかも崩れ方に美意識があるなら、それはほとんど芸術だ。

私もそのころには、すでに少し機嫌よく酔っていた。景色がわずかにやわらかくなり、声の輪郭が少し丸くなる。足元はしっかりしている。だが頭の中では、時間の区切り方がいつもより雑になっていた。午前と午後の境目、ワイナリーとワイナリーのあいだ、テラスと庭の距離。その一つ一つが、ワインによって少しずつ溶けていく。

葡萄畑を背景にしたワイングラス
ワインは風景を美しく見せるのではない。すでに美しい風景に、人の心の境界を少しだけ溶かす。

そして私は、少しだけ飲みすぎた

正確に言えば、「少しだけ」の範囲をどこまで認めるかには議論の余地がある。だが少なくとも、その日の私は、自分の理性が完全に崩れるところまでは行っていなかった。まだちゃんと歩けたし、ちゃんと笑えたし、たぶん会話も成立していた。問題は、成立していた会話の範囲が、人間以外にまで広がりはじめたことだった。

三軒目のあと、バスは少し長めの自由時間をくれた。葡萄畑のあいだを散歩してもいいし、ギフトショップを見てもいいし、庭のベンチで休んでもいい。老婦人たちは「私たちは文明の側に残る」と宣言し、テラスの日陰から動かなかった。私はそのころには、にぎやかな車内から少しだけ離れたくなっていた。ワインバスの楽しい狂騒は好きだったが、ナパにはそのあとに来る静けさも必要だと、身体のどこかが知っていたのだと思う。

だから私は、一人で葡萄畑のほうへ歩いていった。土は乾きすぎず、靴の裏にちょうどよく音を返す。葉は陽を受けて揺れ、虫の声はどこか控えめだった。ワインを飲んだあとに畑を歩くと、景色は少しだけ現実から浮く。酔っているから美しく見えるのではない。むしろ、美しさのほうがこちらの感覚の境目をあいまいにしていく感じだ。葡萄畑というのは不思議な場所で、整然としているのに、どこか夢のなかの秩序に近い。列はまっすぐで、葉は揃い、風景は管理されている。なのに、その繰り返しを見ているうちに、頭は少しだけ別の階段を降りていく。

飲みすぎた午後の葡萄畑には、
現実を壊すほどの狂気はない。
ただ、現実の輪郭を少しだけやさしくする魔法がある。

最初に話しかけてきたのは、ウサギだった

畑の端に、小さな影が動いた。野ウサギだった。カリフォルニアでは珍しいものではないし、ナパでも驚くほどではない。だがその午後の私は、そのウサギをただのウサギとして受け取るほど、まだ完全には現実に留まっていなかった。

ウサギは道の脇で一度立ち止まり、こちらを見た。耳だけが妙にまっすぐで、目は黒く、身体は思ったより細かった。そしてその瞬間、私はたしかに聞いたのである。

「君、ちょっと飲みすぎたね」

声は低くも高くもなく、老人とも子どもともつかない妙な落ち着きがあった。私は立ち止まり、まばたきを二度した。ウサギは逃げない。じっとこちらを見ている。

「いや、少しだけです」と私は答えていた。

それが現実だったのか、頭の中だけのやりとりだったのか、いまでもよくわからない。ただ、あのときの私は、それを疑うより先に会話を続けるほうが自然だと思ったのだ。

「少しだけ、は飲みすぎた人がよく使う言い方だ」とウサギは言った。

「あなたは飲まないんですか」

「私は葡萄を作る側の風景だからね」

その答えがあまりにも整っていたので、私は声を出して笑ってしまった。笑うと、少し酔いが軽くなったような気がした。あるいは逆に、さらに深くなったのかもしれない。

ウサギはそれ以上何も言わず、葉の陰へ消えた。私はしばらくその場に立っていた。会話らしきものが終わったあとに残る静けさは、妙に上質だった。ワインを飲みすぎた午後にだけ起こる種類の、少し上等な幻覚。そういうものがあるのかもしれないと思った。

鹿は、もっと真面目な顔をしていた

その先、畑の向こうに少し開けた場所があった。木陰があり、ベンチが一つ置かれている。私はそこで休もうと思った。午後の光は傾きはじめていて、さっきまでの賑やかさが、遠くのほうで薄くなっている。こういう時間のナパは、最初のテイスティングの華やかさより、ずっと本質に近い。人間の喧騒が少し引いたあとで、土地そのものの呼吸が戻ってくるからだ。

そこで鹿に会った。若くはないが、年を取りすぎてもいない、しなやかな一頭だった。こちらに気づいているのに逃げず、少し斜めからこちらを見ていた。鹿はいつも、どこかこちらを試すような目をしている。人間がどの程度うるさい生き物かを、その都度見極めているみたいに。

「君は騒がしい連中と一緒に来たね」と、鹿は言った。

今度は驚かなかった。ああ、今日はそういう日なのだと思った。私はベンチに座り、「ええ、でもとても感じのいい人たちです」と答えた。

鹿は少し考えるように耳を動かし、「それならよかった」と言った。「感じの悪い酔っ払いは森にまで匂いが残る」

私は急に、自分のシャツの匂いが少し気になった。ワインの匂いと、昼の太陽と、葡萄畑の土。たしかに身体には一日の名残がついているだろう。

「あなたはここに住んでいるんですか」と私が聞くと、鹿は「住んでいるというより、通っている」と答えた。「土地は人間のものになったり自然のものに戻ったり忙しいけれど、道だけはだいたい同じところを通る」

その言葉は、酔った頭に妙に深く入ってきた。土地は変わる。所有者も用途も変わる。ワイナリーは整えられ、テラスは美しく設えられ、ワインは洗練される。だが風の道や、動物たちが通る線は、案外ずっと昔から同じなのかもしれない。人間は景色を所有しているつもりでいるが、実は一時的に借りているだけなのだろう。鹿はそのことを、少しだけ真面目な顔で教えてくれた。

人間は土地を飾る。
けれど風や動物は、もっと長くその土地を知っている。
飲みすぎた午後には、その順番が少しだけ見える。

畑の静けさは、賑やかな午後のあとにしかわからない

バスに戻る時間が近づいていた。私はベンチから立ち上がり、ゆっくり元の道を戻った。途中で鳥の声も聞いた気がするし、ブドウの葉が笑っていた気もする。だがそのあたりは、正直に言って記憶の信頼性に少し問題がある。問題があるのに、妙に真実味がある。そういう記憶が旅にはある。事実かどうかより、そのときの気分の精度のほうが高い記憶だ。

葡萄畑からテラスへ戻ると、老婦人たちはまだ元気だった。いや、さっきよりさらに元気だった。「お帰り、森の哲学者」とピンクのジャケットが言った。私は一瞬、彼女たちにも何か見えていたのではないかと思ったが、たぶん私の顔がそういう表情をしていたのだろう。私が少しだけ黙っていたので、帽子の老婦人が水を差し出し、「いま大事なのは思想じゃなくて水分よ」と言った。これもまた、名言だと思う。

帰りのバスでは、皆どこか穏やかだった。騒ぎ疲れたのではない。むしろよく笑い、よく飲み、よく景色を見たあとの、満ちた静けさに近かった。人は本当に楽しい午後を過ごすと、最後には少し静かになる。ナパのよいところは、その静けさまで用意されていることだ。葡萄畑の列、傾きはじめた光、遠くの山、バスの窓に流れる木々。そのどれもが、午後の余熱をちょうどよく冷ましていく。

霧のある葡萄畑
ナパの静けさは、朝だけのものではない。よく笑い、少し酔ったあとの夕方にも、もう一度帰ってくる。

老婦人たちは、最後にいちばん美しかった

ホテルに近づくころ、車内の光はだいぶやわらかくなっていた。老婦人たちはもう大声で笑ってはいなかった。代わりに、三人それぞれが窓の外を見ていた。疲れているようでもあり、満足しているようでもある。私はその横顔が、その日いちばん美しいと思った。人が本当に楽しんだあとの顔には、若さとは別の輝きがある。何かを勝ち取った顔ではない。ちゃんと一日を使い切った顔である。

白い帽子がふいにこちらを見て、「あなた、ちゃんと変なもの見た?」と聞いた。

私は少し黙ってから、「ええ、少しだけ」と答えた。

彼女は満足そうにうなずいた。「それならよかった。ナパでは、午後に一回くらい現実がゆるまないと」

あまりにも当然のようにそう言うので、私は笑ってしまった。もしかすると彼女たちも若い頃、同じような午後を何度も過ごしてきたのかもしれない。葡萄畑で鳥に話しかけたり、ベンチで人生の大きなことを急に許したり、そういう不思議な時間を。それを経て人は「恥をかきながら、でもワインはこぼさない」年の取り方をするのだろうか。そうだとしたら、老いることも悪くない。

上質な午後とは、
ただ美しいだけでは足りない。
少し笑えて、少し酔って、最後に少し静かでなければならない。

ナパで覚えるのは、ワインより“急がないこと”かもしれない

ホテルへ戻り、部屋の窓から夕方の色を見ながら、私はその日一日を反芻していた。ワインの銘柄を全部思い出せるわけではない。香りの順番も、たぶん完璧ではない。けれど、それでいいのだと思った。ナパで本当に持ち帰るべきものは、詳細なテイスティングノートより、急がないことの感覚なのかもしれない。朝の空の高さ、バスの親しみ、老婦人たちの乱調、葡萄畑の静けさ、ウサギの皮肉、鹿の忠告、帰りの光。それらのあいだで私は、予定通りに過ごすことと、豊かに過ごすことは同じではないのだと、改めて知った。

ナパの午後は、人生の縮図に少し似ている。最初はきちんと始めようとする。グラスを丁寧に持ち、景色を美しく眺め、上品な時間を過ごすつもりでいる。だが途中で誰かの笑いに巻き込まれ、予定は少し乱れ、思っていたより飲みすぎて、少し変なことを考える。にもかかわらず、いや、だからこそ、最後には景色が静かに整えてくれる。人生もたぶんそういうものだろう。全部をきれいに運べるわけではない。けれど、少し崩れたあとでちゃんと美しく戻ってこられるなら、それで十分上質だ。

そして何より、私はあの老婦人たちのことを忘れないと思う。年齢を重ねても、午後をちゃんと浪費できる人たち。笑いすぎて少し声が枯れても、帰りの窓際ではきちんと静けさを持てる人たち。彼女たちはナパという土地の、もう一つの正解だった。洗練されたテラスも、葡萄畑の斜面も、この土地の美しさを支えている。だがそれと同じくらい、人間が上手に可笑しくいられることも、この場所の魅力なのだ。

野生たちの声は、たぶん半分だけ本当だった

その夜、私は自分が本当に動物たちと話したのかどうか、何度か考えた。結論から言えば、たぶん半分だけ本当だったのだと思う。ウサギが皮肉屋で、鹿が少し哲学的だったのは、たぶん私のほうの気分がそういう声を必要としていたからだ。だが必要としていたからこそ、聞こえたのだとも言える。旅先では、ときどき自分の考えが外の風景の口を借りて戻ってくることがある。海が答えているように思える日もあれば、森が注意してくる日もある。葡萄畑の午後には、たまたまウサギと鹿だっただけだ。

そう考えると、酔うことにも少しだけ意味がある。現実を失うためではなく、現実の輪郭を少しやわらかくして、自分の中にある声が外へ出やすくなるために。もちろん毎日そんなふうに飲むべきだとは思わない。だがナパの午後には、ときどきそういう余白が似合う。理性を壊さず、境界だけを薄くするくらいの酔い。そのとき人は、テイスティングノートよりもう少し深いものを持ち帰れる。

あの午後、私はたしかに少し飲みすぎた。だが、それは悪いことではなかった。ワインを粗末にせず、自分も壊さず、それでいて少しだけ世界の声が近くなるところまで行けたなら、その日はむしろ成功だったのではないかと思う。恥をかきながら、でもワインはこぼさない。老婦人たちの標語は、思った以上に人生の多くを説明していた。

Hiro Does California 第五話。次回は、いいホテルは景色より余白だとヒロが考える話へ。 小道、リネン、静かな椅子、庭の灯り、そして何もしない時間が旅の質をどのように変えるのかを辿ります。