パームスプリングスへ着くと、まず影が先に目に入る。建物そのものより、建物が地面にどう影を落としているか。ヤシの幹そのものより、その細く長い線が白い壁の上をどの角度で横切っているか。プールそのものより、その水面の反射が午後の壁にどんなふうに揺れているか。パームスプリングスの美しさは、いつだって本体より影にある。あるいは、光と影のあいだに置かれた余白にある。だからこの町では、人もまた、自分の輪郭より気配のほうが美しく見える。

私がこの町を好きなのは、その「気配の美しさ」を一度でも知ってしまうと、もう普通のリゾートには戻れなくなるからだ。パームスプリングスは派手だと言われることがある。たしかに過去には派手な人々がいたし、いまでも十分にスタイリッシュだ。けれど本当の魅力は、見せびらかすことではない。むしろ、どこか引いている。白い壁は白いだけで喋りすぎないし、プールはきらびやかというより静かで、夜風には少しだけ昔の香水のような気配が残っている。この町の贅沢は、声を張らない。だからこそ、人はつい耳を澄ませてしまう。

その日、私は昼すぎに着いた。空は雲ひとつなく、山の輪郭は乾いた空気のなかで思った以上に近く見えた。ホテルの部屋に入ると、低い家具、大きな窓、白いリネン、一本の影。パームスプリングスでは、部屋に「何があるか」より「何が少ないか」のほうがよく効く。置かれすぎていない空間のなかで、人はようやく自分の考えの姿勢に気づく。昨日までのロサンゼルスの夜が、少しだけ派手な残光として身体のどこかに残っていた。だがこの町は、そんな残光すらデザインの一部みたいに見せてしまう。

私はシャワーを浴び、白いシャツに着替え、まだ日が高いうちに少しだけプールサイドに出た。パームスプリングスの午後は、油断すると何もしないまま一日を完成させてしまう。椅子に座り、グラスを持ち、山を見ているだけで、時刻のほうが勝手に贅沢になっていく。これが海辺なら、人は歩きたくなる。ワインカントリーなら、もう一軒だけ行きたくなる。だが砂漠では違う。砂漠は「少しじっとしていろ」と言う。その命令は不思議と優しい。

ジャズの夜は、砂漠の町を少しだけ液体にする

夕方、知人から連絡があった。今夜、小さなジャズクラブへ行かないかという誘いだった。パームスプリングスには、表向きの華やかなレストランやバーもあるが、本当に夜が面白くなるのは、少しだけ隠れた場所へ入ったときだ。知っている人が知っている、という言い方が一番似合う。観光地の外側ではない。観光地の影のほうにある夜だ。

ジャズクラブと聞いただけで、私は少し機嫌がよくなった。ジャズという音楽には、どの都市でもその都市なりの夜のかたちを映してしまうところがある。ニューヨークのジャズは街路の直線を持っているし、ニューオーリンズのジャズには湿った体温がある。では砂漠のジャズはどうか。私はまだそれを知らなかった。だが想像はできた。少し乾いていて、少し色気があり、会話の終わりに長く残る音。そんなものだろうと思った。

日が落ちはじめると、町の輪郭は急に映画のセットのようになる。低い建物、一本だけ光るネオン、ヤシの黒い影、どこかから流れてくる笑い声。パームスプリングスは、夜になると過去のスターたちの気配を隠そうとしない。フランク・シナトラも、ボブ・ホープも、ディーン・マーティンも、そんな名前をわざわざ呼ばなくても、この町には「そういう時代」の空気がいまでもうっすら残っている。生きた歴史というほど強くはない。もっと軽い。香りの名残のような、薄い残像だ。だが、その残像の中で飲む一杯は、少しだけ美味しくなる。

ピンク色の夕方のパームスプリングス
パームスプリングスの夕方は、日没というより、町全体が少しずつ古い映画の色へ変わっていく時間である。

クラブは大きくなかった。むしろ小さいほうだった。そこがよかった。入口の前には大げさな行列もなく、看板も控えめで、入ると低い照明と磨かれたカウンターがある。音楽はまだ始まっていないのに、空間そのものがすでに「これから夜がうまくいく」と言っている。いいジャズクラブには、そういう予告の上手さがある。

バーカウンターの向こうにいた男は白髪で、笑うと片方の頬だけが少し上がった。いかにも長くこの町の夜を見てきた顔だった。私はマティーニを頼もうか少し迷ったが、結局バーボンベースのカクテルにした。砂漠の夜は、透明な酒より少し琥珀色のものが似合う。グラスが届き、一口飲む。ああ、と思う。夜がようやく始まった。

パームスプリングスでは、人は少しだけ役を演じたくなる

この町の面白さは、誰もが少しだけ自分の好きな時代の自分を演じているところにある。ロサンゼルスでは人は「いまの自分」をよく見せたがる。今日の服、今日の仕事、今日の肩書き。だがパームスプリングスでは、それより「自分が好きな映画の中の自分」に近づきたがるようなところがある。少しだけ古いカットのジャケット、少しだけクラシックな口紅、少しだけゆっくりした所作。誰も露骨にはやらない。だが夜が進むにつれて、その芝居が薄く、しかし確実に見えてくる。

私自身もその夜、少し演じていたのかもしれない。白いシャツの襟を、いつもより少し丁寧に整えたし、グラスを置く速度も少しだけ意識した。だが、その芝居は不自然ではなかった。パームスプリングスという町自体が、そういう「わずかな演出」を歓迎している。派手な嘘ではなく、ほんの少しだけ美しく見せるための演技。大人に許された仮装だ。

音楽が始まると、空気はさらにやわらかくなった。ピアノ、ベース、ブラシで撫でるドラム。声はまだ入らない。最初の数曲は、あくまで会話を壊さないための音楽として流れる。そこが上手かった。いいクラブは、客の夜を奪わない。むしろ夜を少しだけ深くする。私はグラスを傾けながら、こういう場所では誰かと恋に落ちるより先に、自分の夜の姿勢に恋をするのかもしれないと思っていた。

パームスプリングスの夜では、
人は自分より少しだけ魅力的な自分を演じたくなる。
それは虚栄ではなく、砂漠が許す小さな魔法だ。

最初に現れたのは、笑い声だった

時間がどうずれたのか、正確にはわからない。二杯目のあとだったかもしれないし、三曲目のピアノソロの途中だったかもしれない。ただ、ある瞬間から、空気の質が少し変わった。クラブの照明が一段だけあたたかくなり、客たちの輪郭が少しだけ柔らかい映画のフィルムみたいに見えはじめた。そして、どこかで笑い声がした。

それは現代の笑い方ではなかった。もっと大きく、もっと胸から出る笑いだった。聞いているだけで、誰かが肩を叩き、グラスを振り、ジョークをもう一つ要求している情景が見える種類の笑いだった。私は顔を上げた。バーカウンターの向こう側、少し奥の席に、明らかに「昔の夜」の輪郭をまとった男たちがいた。

いや、正確には、ひとりは座っていて、もうひとりは立っていた。座っている男は青い目をしていた。スーツは完璧にくたびれていないのに、着方にいかにも遊びがあった。立っているほうは背が高く、動きが少し大きくて、顔には人を安心させる古いアメリカの笑いの影があった。私はグラスを持ったまま、しばらく動けなかった。

「遅かったじゃないか」と、青い目の男が言った。

その声は、あまりにも私の想像していたフランク・シナトラの声に近すぎた。

「この町は夜九時を過ぎると、少し昔に戻るんだよ」と、背の高い男が言った。

こちらは、どう見てもボブ・ホープだった。

人は、驚いたときほど奇妙に礼儀正しくなることがある。私はゆっくり彼らの席へ近づき、「お邪魔しても?」と聞いていた。するとシナトラが肩をすくめ、「君がそこに立ってるだけじゃ、我々のほうが落ち着かない」と言った。ホープは笑って、「彼は歌うより文句を言うほうが得意なんだ」と付け足した。私はそこで、ようやくこれは夢か酒のせいか、あるいはパームスプリングス流の何かの悪ふざけなのだと理解した。だが、理解したところで意味はない。楽しいものは、理由がつかないまま楽しんだほうがいい。

モダンハウスとプール
パームスプリングスでは、現代の夜と古い伝説が、同じプールサイドの反射のなかで平然と混ざり合う。

フランクは夜を歌う前に、まず座り方を教える

シナトラはグラスを持つ指先まで、完全にシナトラだった。雑ではなく、しかし力も入っていない。彼のような男は、何を喋るかより、椅子にどう座るかのほうが先に人を魅了するのだと、そのとき初めてわかった。彼は私のシャツを一度だけ見て、「悪くない」と言った。それは賛辞というより、通行証のように聞こえた。

「だが君、少し真面目すぎる」と彼は続けた。

「そう見えますか」

「見えるとも。パームスプリングスでは、真面目さはシャツの中に半分しまっておくもんだ」

その言い方が妙に可笑しくて、私は笑った。ボブ・ホープがすかさず「彼の言うことを全部聞くなよ。こいつは人生の三割くらいを芝居で乗り切ってきた」と言う。シナトラが「四割だ」と訂正する。私はそのやり取りを聞きながら、たぶんこの町の男たちの魅力は、勝つことより、うまく遊ぶことにあるのだと思った。成功者の余裕ではない。夜の使い方を知っている人の余裕だ。

シナトラはジャズクラブの音に耳を傾けながら、「いい夜っていうのはな」と言った。「最初から派手である必要はない。だんだん良くならなきゃ意味がない」。それは歌にも、酒にも、恋にも、町にも当てはまる真理に聞こえた。パームスプリングスの夜もまさにそうだ。日没だけで完成はしない。ネオン、グラス、会話、少し遅い笑い声、その順番が揃ってはじめて、夜は自分の声を持ち始める。

いい夜は、最初から完成していない。
グラスの底が少しずつ見えてくるころ、
まだちゃんと良くなっていなければならない。

ボブ・ホープは、砂漠に必要なのはユーモアだと言った

ボブ・ホープは、シナトラよりずっと軽やかだった。いや、軽やかに見せる技術がさらに上手かったと言うべきかもしれない。人を笑わせることを生業にしてきた人間には、場の空気の重さをほんの少し持ち上げる才能がある。彼はまさにそういう感じだった。シナトラが夜に色をつける男だとすれば、ホープは夜の肩の力を抜く男だった。

「砂漠ってやつはね」と彼は言った。「美しいだけじゃ、ちょっと退屈なんだよ。だから人間は冗談を持ち込む」

その言葉は、妙に本質をついていた。パームスプリングスの美しさは、たしかに完璧すぎる瞬間がある。空は青く、線はまっすぐで、影は長く、プールは静かだ。だが、その完成度の高さは時に人を気取らせすぎる。そこで必要になるのが、少しの冗談なのだろう。笑いは、完璧を完璧のまま窒息させないための穴になる。パームスプリングスの洒落た夜に、いつもどこか可笑しみが混ざるのは、そのせいなのだと思った。

私が「この町には時間が少し残りすぎていますね」と言うと、ホープは「その通り。だからみんな若いふりをするし、年を取ることも少し上手くなる」と返した。なんて見事な返答だろうと思った。パームスプリングスでは、若さと老いが敵対していない。昔のスターたちの気配がいまも町のあちこちに残り、現代の人間がそれを冗談半分で受け継いでいる。だから年を取ることが、ここでは少しだけ華やかに見える。

そしてそのことは、私を妙に安心させた。カリフォルニアの他の場所では、若さが前に出ることが多い。海辺でも、ハリウッドでも、ワインカントリーでさえ、何かの新しさが魅力として語られやすい。だがパームスプリングスだけは違う。この町では、古さがスタイルになる。古い声、古い冗談、古いホテル、古いカクテル。すべてが少しだけ気取っていて、それでいてちゃんと愛嬌がある。その感じが、私はひどく好きだった。

パームスプリングスのプールサイドラウンジャー
砂漠の贅沢は、完璧なデザインだけで成立しない。そこへ少しの笑いが混ざって、ようやく人のものになる。

夜は、恋より先に会話を成熟させる

時間がどこまで本当に流れていたのか、もうよくわからない。ジャズは続き、グラスは減り、クラブの中の客たちは誰もこの奇妙な同席を不思議がっていないように見えた。むしろこの町では、過去のスターと現代の旅人が同じテーブルにつくことなど、夜のルールの範囲内なのかもしれなかった。

会話は、やがて音楽から恋へ移った。シナトラは「いい女は、だいたい部屋へ入ってきたときより、帰るときのほうが美しい」と言った。私は少し黙った。その言葉は、いかにも彼らしい半分本気のロマン主義に聞こえた。ホープが「彼は若い頃からそういうことばかり言ってる」と笑う。だが私は、その言葉にひどく納得していた。人は見た瞬間だけではわからない。会話のあと、笑いのあと、沈黙のあと、帰り際の横顔にようやく魅力が完成することがある。旅先の恋も、たぶん同じだ。

私はパームスプリングスの夜に、恋が即座に燃え上がるものだとは思わない。むしろここでは、会話のほうが先に成熟する。大げさな告白や電撃のロマンスではなく、同じグラスを持つ角度、同じ曲で少し笑うタイミング、同じ古い冗談にきちんと反応する感性。そういうものが少しずつ揃っていって、ようやく「この人と夜をもう少し長くしてもいい」と思う。砂漠のロマンスは、熱よりも余韻でできているのかもしれない。

パームスプリングスの恋は、
雷のようには始まらない。
グラスの残り方や、会話の切れ目や、
古い歌をどう好きかで、少しずつ始まる。

時間をまたぐ夜には、出口が二つある

どんな夜にも、最後には出口がある。だがパームスプリングスの不思議な夜には、出口が二つあるように思う。一つは現実へ戻る出口。会計を済ませ、車を呼び、ホテルへ戻り、白いシーツに横たわる、普通の出口。もう一つは、夢を夢のまま抱えて眠りに落ちる出口だ。その夜の私は、たぶん後者を選んでいた。

シナトラとホープは、どこかで自然にいなくなった。別れの挨拶があったかどうかも、正確には覚えていない。ただ、席が少し軽くなり、グラスの影が元の夜のものに戻り、クラブの空気がいまの時間へ帰ってきた。私はそこで、ようやく自分が十分に楽しんだのだと知った。楽しい夜の終わりには、現実へ戻るときの小さな寂しさがある。その寂しさがあるなら、夜は成功なのだ。

外へ出ると、砂漠の夜風は思ったより冷たかった。昼の熱がすっかり抜けて、町は静かに自分の輪郭を取り戻していた。ヤシの影はもう地面に細く伸びるだけではなく、空そのものへ黒い線を引いている。ネオンは相変わらず控えめで、遠くの山は見えないのに、山の形だけはどこかで感じられる。パームスプリングスの夜は、やはり少し古い映画みたいだった。しかも、結末を急がないタイプの映画だ。

砂漠の夕暮れのテラスとカクテル
この町の夜は、最後の一杯のあとも、しばらく人の中で続いている。そこが砂漠らしい。

ホテルへ戻るころ、ヒロは少しだけ別の時代の男だった

車に乗り、ホテルへ戻るあいだ、私はずっと笑いそうになっていた。もちろん誰にも説明はできない。ジャズクラブで、フランク・シナトラとボブ・ホープに会った、などと言ったところで信じられるわけがないし、信じてほしいとも思わない。だが、信じられないことが起こるとき、人はしばしば自分の輪郭まで変わる。その夜の私は、ほんの少しだけ別の時代の男だった。グラスを持つ角度も、冗談の返し方も、夜の終わりを惜しむ仕草も、いつもの自分よりわずかに丁寧だった。

たぶん、パームスプリングスの魔法とはそういうものなのだろう。この町は、人を別人にはしない。だが少しだけ、好きな映画の中の自分に寄せてくる。完全な変身ではない。少しよく見える自分、少し余裕のある自分、少し古い冗談が似合う自分。大人に許されたその程度の変身が、この町にはとてもよく似合う。

ホテルの部屋に戻り、靴を脱ぎ、静かな室内の白い壁を見る。昼に見たのと同じ壁なのに、夜のあとのそれは少し違う。影が深くなり、余白が大きくなり、そのなかに自分の夜の記憶がうっすら沈んでいく。私はベッドの端に腰掛け、少しだけ目を閉じた。ジャズ、笑い声、シナトラの青い目、ホープの軽口、クラブの低い照明、夜風。全部がまだ消えていない。

いい夜のあと、人は元の自分に戻る。
けれどほんの少しだけ、
戻った自分の着こなしがよくなっている。

影に惹かれるということは、光を知っているということだ

この篇を「パームスプリングスの光」ではなく「影」としたのには理由がある。もちろんこの町は光の町でもある。昼の太陽は鮮やかで、プールは青く、山はくっきりと見え、建築の白はまぶしい。だが本当にこの町を美しくしているのは、光そのものより、光がつくる影のほうだと思う。影が長いから、線が生きる。影があるから、壁は壁以上になる。影が深いから、人の輪郭も少しだけミステリアスになる。

そして夜の魔法もまた、影の美学の延長線上にある。過去のスターたちがいまもどこかにいそうだと思えるのは、昼の事実ではなく、夜の影がそれを許しているからだ。人は光だけの中では、あまりうまく夢を見られない。少しの暗がり、少しの欠落、少しの見えなさが必要だ。パームスプリングスは、その配分が抜群に上手い。だからロマンが古びない。だから冗談が効く。だから夜が少しだけ別の時代へ開く。

私はベッドへ横になりながら、この町にまた来るだろうと思っていた。次はもっと上手にジャケットを選ぼう、とも。もう少しだけ古い冗談を覚えてこよう、とも。あるいは、ただ同じように夕方の影を見て、また夜へ滑り込めばいいのかもしれない。どちらにしても、パームスプリングスは一度では済まない町だ。直線と影とジャズのあいだで、人は自分の少し上等な版を見てしまうからだ。

Hiro Does California 第九話。次回は、砂漠の夕暮れに黙る話へ。 低い壁、一杯のカクテル、長い影、そして何も言わないことの上品さが、 なぜパームスプリングスの贅沢になるのかを辿ります。